北京人の基準

 

  日本では、幕の内ももうじき明ける、という時期。

ところで、正直なところ、私は年々日本のお正月と縁が薄くなっている。食の楽しみも、おせちなどとんでもなく、せいぜいお雑煮くらい。

しかもこれも、春節前後になってからのことだ。それは、北京の小吃店で、日本のお餅に少し近い揚げ餅用の「年糕」が売り出されるから。さらに廟会(縁日)の開催まで待てば、運良く「打糕」が手に入ることもある。こちらは、茹でても溶けにくく、日本のお餅にずっと近い。

 

老北京と結婚してしまったので、基準がだんだん老北京になっているのを感じる。日本食を作る回数は減り、たまに作る時でも、北京の食文化の中にあるものから、日本のものと近いものを選んで加工し、ちょっとだけ日本の気分に戻るっていう感じだ。少なくとも私の場合、外資系のスーパーで輸入食品を買って加工することは、めったにない。昔アメリカにいた頃に、日本で普通に売っている砂糖が手に入らなかったため、グラニュー糖で煮た日本風?煮物を食べていたが、その時に変な適応力がついてしまったのだろうか。

 

しかし最近その反対に、相棒の「北京標準」の根強さに、しみじみと感じ入ることが多くなった。

プリンを食べさせると、「ああ、甘い『豆腐脳』だね」

お土産にもらったクッキーを食べさせると、「『桃酥』よりおいしいな」

日本の味噌汁を飲ませると、「こりゃ『豆汁』みたいなもんだな」と返ってくる。

この『豆腐脳』も『桃酥』も『豆汁』も、北京で普通に見られる庶民的食べ物。でも、豆汁は癖が強い飲み物で、北京人でも好む人は減っている。相棒は味噌汁が苦手だが、さすがに豆汁と比べるのは、ちょっとあんまりだ。

しかもある日、プロレスのテレビ中継を見て、

「人間の『闘蚰蚰(こおろぎ相撲)』みたいなもんだ」と言ったので、

「それはちょっとレスラーに失礼でしょ!」とあきれた。

 

こんなのはまだ序の口で、相棒は、瓶の中のものを掬う時、どんなに「スプーンが便利でしょ?」と勧めても、箸を使う。ずっと「なぜ?」と思っていたが、ある日ハタと気づき、「子供の頃、家に西洋風のスプーンってあった?」と聞いたら、果たして「なかった」との答え。「箸とちり蓮華しかなかった」という。これは私にはちょっとしたカルチャーショックだった。道理で、ゴマだれも韮ペーストも、ヨーグルトもマヨネーズも、箸を使いたがるわけだ。コーヒーに砂糖やミルクを入れたときも、箸でかきまぜている。

 

 でも、ふと思う。これくらい頑固な人間がいないと、弱肉強食の国際都市になった北京でどんどん都心を追い出されている「北京っ子」たちは、自分たちの文化を守れないんじゃないか?食文化といった最後の砦さえ失ってしまうのでは?

 

 昨年末、北京っ子たちのオアシスだったペット市場「官園市場」が取り壊し工事に入った。仮に一部の店は残るとしても、雰囲気はがらりと変わってしまうだろう。都市を変容させる大きな資金と権力を前に、いくら頑固な北京人が貴重な文化を守ろう、と声を上げても、その声はブルドーザーの前の虫の声のごとく力に乏しい。少なくとも現状では。

 

 振り返って私にできることは何か?よし、もっともっと豆汁を飲んで、北京の小吃を食べよう!

あ、方向間違ってるかな?いいんです。もう私の心は半分北京人ですから。

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北京人の基準 への2件のフィードバック

  1. Yoshiko より:

    活き老北京翻訳機!便利ですね。でもプロレスが人類の闘蚰蚰なら大相撲は?!

  2. 麻美 より:

    コメントありがとうございます!重量級の闘蚰蚰、でしょうか・・・。

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